【幸若舞曲一覧(リンク先)】
幸若舞発祥の地である福井県越前町の地図です。
桃井幸若舞太夫家一族(弥次郎家、八郎九郎家、小八郎家)三家の住まいは、越前の国(福井)にありました。
幸若舞太夫家は、明治四年の古文書からは、幸若舞太夫弥次郎上出屋敷八百九十九坪、幸若舞太夫八郎九郎北屋敷一千百六十二坪、幸若舞太夫小八郎南屋敷一千六十三坪、幸若舞太夫(五郎衛門家)敦賀屋敷一千六百坪であったことが判明している。
(地図をクリックするとハッキリ見えます)
◎ 「正保郷長」に江戸時代の幸若諸家の知行地は1075石とあり、地名「印内」(旧朝日町の一部)が出てくる。
「印内」は寺社の支配に属する人々(祈祷・芸能の人)の集落を言う。旧朝日町には織田社(織田信長家の氏神)の印内があり、ここが幸若諸家の知行地の中心であった。
剣神社(元織田神社)に「朝倉氏一乗谷奉行人連署状案」(永禄五年十二月)があり、これは朝倉氏の威勢を背景に織田社が「年中に年貢を完済せよ」とせまるものであるが、ここに佐々生村・内郡神領・印内神領・気比庄神領・天王神領の名があがってる。天王や内郡や印内は織田社の神領であった。
この幸若家の領地支配が朝倉氏や織田信長に認められ、柴田・豊臣・結城・松平氏などから次々に安堵状が出され土地支配を保証されていった。(「幸若太夫の来歴」服部幸造)
◎ 東京都千代田区ガイドには、神田司町一丁目には江戸時代の蝋燭町は寛永のころ幸若太夫の拝領地であった所が含まれている。また、旭町は寛永年間の江戸図によると幸若大夫と出羽秋田藩の藩主佐竹義宣の屋敷地であった。
◎ 江戸幕府第8代将軍徳川吉宗は、将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。
元禄十年(1697年)三月、和歌山藩主徳川光貞の子頼方(後の吉宗)が十四歳の時、越前に三万石を拝領して初めて大名となった。領地は越前の丹生郡下糸生村(現朝日町)以下十三ケ村、坂井郡針原村(現春江村)以下三十二ケ村より成っていた。なお、陣屋は現朝日町下糸生の葛野(かずらの、現枝村)に置かれていた。