2018年04月13日

幸若舞の完成と白山平泉寺

【幸若舞曲一覧(リンク先)】【白山信仰と幸若舞(リンク先)】 織田信長の舞「人間五十年」は、幸若舞「敦盛」の一節!
1 幸若舞の完成
 桃井幸若丸とは、幸若舞の始祖と伝えられる桃井直詮の幼名。
 系譜によると,南北朝時代の北陸の武将桃井直常の孫で,父の死後,親族である叡山光林房の詮信のもとに預けられ,修行中草紙類に節をつけて歌ったのが幸若舞の始まりといい,幸若舞の名称は幸若丸からとったと伝えられる。(ブリタニカ国際大百科事典)
 生まれつき声の良かった幸若丸は、平世和漢の学を好み、ある時「屋島軍記」という草子に節句を付けて謡ったところ叡山で評判となった。これが後小松上皇(1377-1433)の耳に入り参内し音曲を奏したところ、今後「幸若音曲」と奏してもよいとの言葉と桐菊の御門を賜った。
 その後、桃井直詮(幸若丸)は、越前(福井県)に下り、さらに芸を磨き奥義に達し、度々不思議の示現を賜り幸若舞三十六曲の新詠を完成させ、帝から給わった草紙三十六冊に「節・詰・言葉」を付け、内容に従って「サシ・色・クドキ」十六節の章句を付けた。
 まず「屋島」から節付けを始めたところ、その中の「けいけいほろろの雉子(きじ)の声」にどうしても節付できないので、日吉神社(大宮権現の御前)に参籠して神に祈った。
 七日目の晩、内陣より神の御声が「越前国の白山権現(現福井県勝山市平泉寺)へ参社せよ。三社の中の社は雉子神である。
 このキジ神から相伝あるであろう」と聞こえてきた。そこで平泉寺白山神社に参り中の社の前で「けいけいほろろ」の句を唱えたところ、童子が現れ「「けいけいほろろ」の句はこのようにせよ」と言って空中に立ってお示しになった。
 さらに、「末の代に汝の子孫に無理非道を振る舞う者があれば神罰を下す。これを家の重宝とせよ」とおっしゃって、黒く茶色の紙に白く「罰」と書いたものを下された。
 桃井直詮はその後、後花園天皇(1428-1464)に召され太夫の称号と越前国西方領に知行三百町を賜わり、初代の幸若太夫として京の都を中心に活躍する。 (「幸若太夫の来歴」服部幸造)
 日本三霊山の一つ白山を開闢した平安時代の泰澄大師も、実は国史跡白山平泉寺旧境内は、古くから信仰の対象であった霊峰白山(標高2,702メートル)の越前側の拠点として、養老元年(717年)に泰澄によって開かれたと言われています">白山平泉寺
白山平泉寺旧境内は、古くから信仰の対象であった霊峰白山(標高2,702メートル)の越前側の拠点として、養老元年(717年)に泰澄によって開かれたと言われています">白山平泉寺
の白山権現の使者三足の白雉子に衣の襟をくわえられ山頂の方角を教えられていた。
 日本書紀650年二月の条に長門から白キジが献上され自らの徳を示す瑞祥と喜んだ孝徳天皇は盛大な献上儀式を行い、元号を白雉(はくち)と改め、「聖王が天下を治める時、天が答えてめでたい印を出現された」と述べたとの記事もみられる。
 東京国立博物館にある絵師土佐将監光信(1434〜1524)の桃井直詮(初代幸若大夫)肖像画の中に、「曾(かつ)て貴人の御殿にて、名誉を発し尊卑ともに袖を連ねあるいは牛車馳せて、語り舞う源平合戦の精妙さを見に集まった。だがそれが白山の神の助があって初めて生まれた舞の技であることを誰が知ろうや」との賛令文と、越前一乗谷曹洞宗心月寺(朝倉家菩提寺で桃井直詮の葬られた寺)二世住職海闉梵学の署名がある。

2 中世における幸若舞
 「尋尊大僧正記」に、長享二年 (1488)7月23日「六万沙汰、於極楽坊、幸若太夫久世舞勧進可有之云々。自来廿五日云々。今日明日舞殿等立之云々。」、7月26日「於極楽坊、幸若太夫舞有之。昨日より初之。古市取立也。学侶六方見物、雑人一向如無云々。」、8月5日「信承相語、久世舞禄物、学侶千疋、衆中五百疋云々」とある。
 南都興福寺主催の元興寺極楽坊における幸若太夫の勧進曲舞は、興福寺の官符衆徒の棟梁(最高位)古市澄胤の主導、興福寺寺門組織の主催にかかる興行であった。
 興福寺寺門組織の中枢をなす三輩、学侶・六万・衆中の責任において禄物が下行された由がみえることから、寺門組織を挙げての主催であった事がわかる。
 元興寺は、蘇我馬子が飛鳥の最古の寺飛鳥寺を平城京(奈良)に移した寺で、十二世紀ごろから極楽坊と呼ばれた。
 幸若舞はすでに京の室町邸はじめ貴顕の邸宅で演じて好評を得ていた。(「康富記」宝徳二(1450)年)
 しかし、武家の支配する京と違い、当時、奈良では興福寺寺門あるいは大乗院門跡と結びついた「五カ所十座」と称さる声聞師が、猿楽(能)、白拍子、あるき巫女、鉢たたきなど、七道物と称される雑芸者等の支配権全てを持つという権限の強い土地柄であった。
 本来、芸能による奈良進出は、畿内の声聞師の組織を通じて初めて可能になるものである。
 ところが、幸若大夫の勧進興行は、特別で、強力な力を持って権勢を振るっていた大和五カ所十座を押しのけての寺を挙げての催しであった。
 これは、大和五カ所十座(声聞師)権限下での勧進興行とは性格の異なるものとなったのである。
 長享二年(1488)当時、奈良において勧進猿楽(能)が採用されることは稀で、大和猿楽四座(観世座・金春座・宝生座・金剛座)系の太夫の勧進興行に至っては皆無の状況にあった。
 こうした背景の中で現在知られている限り幸若太夫の奈良進出は唯一の事例である。
 すでに幸若舞は他を跳ね除けて京や大和で確固たる地位を築いていたことが窺える。 (「曲舞と幸若大夫」川崎剛志)
 中世における幸若大夫の舞は、他の芸能とちがい独自の世界観を根底に根ざしており呪術儀礼の執行者でもあった。
 特殊な霊力を持つ存在として畏怖され忌避される側面もあり、神の代行者でもあった。
 こうした存在の為すこと言うことは、聖なるしぐさであり言葉である。
 幸若舞はこうした聖なる時に演ずる”語り”を基軸として形成された語り物である。
 幸若舞は舞芸であると同時に語り芸でもある。
 舞の所作も四隅の悪鬼を鎮斎して結界すべく反閇(へんぱい)的所作で足踏み固めて、廻る型を演じる。
 音声も一段と声高に発生するノルという語り口の指示がなされるのであり、ことば・音声・しぐさの三者合体によって絶大な効果の発動が期待される。 (「曲舞と幸若舞」麻原美子)

3 朝倉孝景陣中での幸若舞
 天文年間に越前領主朝倉孝景(1493-1548)は、「甲斐の武田信玄公が越前に向け兵を進めている」との情報を得て美濃の国境まで出陣する。
 この時、朝倉孝景は、「甲州の敵将信玄は数ある中でも日本無双の名将である。幸若舞曲「大織冠」の曲節の中に万戸将軍が魔醯修羅王を討ち滅ぼした話がある。我は今、万戸将軍となり、敵を首羅王と呼んで退治する時なり!」と声高らかに叫んだ後、同伴していた幸若太夫三代八郎九郎義継(1489-1556)に幸若舞の「大織冠」を舞わせた。
 幸若舞大職冠の物語内容は、美人の誉れ高き藤原不比等の妹は、唐の高宗皇帝に望まれ后となり兄である不比等への助成の為と唐の宝を日本に送り届けることにする。
 その護衛役として万戸将軍を付けた。船が日本に向かう途中、海の底に住む八大竜王の惣王はこの宝を奪う為に阿修羅の大将魔醯修羅王を向かわせますが失敗、続いて竜宮の乙姫を派遣するなど色々事が展開していくのである。
 戦陣では幸若太夫が「大織冠」の曲節を声にだし謡い舞った。「万戸は順風に帆を上げ心に任せ(吹かせ)行く海漫海漫としてはまた波上縮んだり」という所に差し掛かった時、咄嗟に機転を利かせた。
 このところを「海漫海漫(かいまんかいまん)」と謡い舞えば信玄は甲斐の国主であり敵である甲斐勢の勢いがいかにも怒って優勢であるように聞こえてしまう。
 これでは見方にとって不吉となるため「海漫海漫(うみまんうみまん)」と変えて謡い舞った。
 言葉にも魂がある。祝福されればそのものには福運が授かるものである。
 幸若太夫の見事な言霊による機転を感じ取った朝倉孝景は「この度の我軍は疑いなく勝利たるべし」と大いに喜び、後に幸若太夫に備前長光の二尺七寸の太刀を贈り与えた(幸若家記録)。
 朝倉孝景軍の出陣が余りにも早かったためなのか、この時、武田信玄は戦うことなく甲斐へ帰国している。戦を行う、行わないなど人は何かを選択決断する時には常に自分に最も良い方向だと思って選択している。
 しかし、その選択の結果は実は大きな自然界の時の流れの中で、自分にとってその時その時の自分に最も等しいものを選んでいる。それが自然界 (宇宙空間の時) の流れと言うものである。
 朝倉孝景は当時日本最強と言われた敵軍を目前にして自軍の勝利に向けて、幸若太夫にこの舞を舞わせた。
 誰もがこの時厳しい戦で大変な事態に直面していることを知っていた。
 幸若太夫もまた朝倉孝景のそういったところを「うみまん」と謡い言葉に魂を入れることができたのである。
 心と心は通じるもので、時として心は物事をも動かすものである。
 武田信玄の心境の変化による戦の方向替えは何だったのであろうか。
 「うみまんうみまん」と謡った幸若太夫の舞に、朝倉軍皆は大いに喜びわいて胸の中にある不安が一気に吹っ切れた。
 勝利のみを信じる「和」での一致団結心には恐ろしいまでの気力がみなぎっていた。
 その一致団結した気が武田軍に伝わったのか、又はその気が全てを「無」にしてしまい戦の要因を無くし敵は来なかった気がしてならない。
 言葉一つで戦の流れが変わったのかもしれない。朝倉孝景にとって今回の戦の回避は願ってもない事であり、幸若太夫の言葉の魂を重んじる吉運の強さにさぞ満足であったであろうことが想像される。
 織田信長も、今川義元との戦目前に生と死の境に立ち死を覚悟した時、自ら幸若舞「敦盛」の「人間五十年」を謡い舞ったあと出陣している。桶狭間での戦で大勝利となったのには、悪星を踏み破り吉を呼び込む幸若舞の吉運の強さにあったためであろうか。


4 白山神ククリ姫
 幸若大夫の信仰した白山、この白山の女神菊理媛(くくりひめ)神又は菊理媛(きくりひめ)命は、全国の白山神社に祀られる白山比(しらやまひめ)神と同一神とされている。
 菊理媛神は、『日本書紀』の1巻の伊弉諾(いざなぎ)命の冥府下りの中に一箇所のみ出てくる。
 伊弉冉(いざなみ)命は、天津(あまつ)神の命令で、伊弉諾(いざなぎ)命と結婚し、国生みを行なう。さらに日本の八百万の神々を生みだす。最後に生んだのが火の神で、彼女はそのため、火傷を負い、死んでしまう。
 死んだ伊弉冉命は黄泉の国に埋葬されるが、伊弉諾命は妻を恋しく思い、会いたさのため黄泉の国へ赴く。ところが伊弉冉命は「すでに黄泉国の食物を食べてしまったので、もう帰れない」と答える。しかし、「せっかく迎えに来てくれたことは恐れ多いことでありますので、黄泉(よもつ)神と相談してみます。けれど、その間、決っして私を見ないで欲しい」と約束させた。
 ところが、伊弉諾命はしばらくすると我慢できなくなり、明かりを点して見ると、彼女の死体の周りを蛆虫(うじむし)がはいまわるという変わり果てた姿であった。
 伊弉諾命は驚いて逃げようとすると、伊弉冉命が「私に恥をかかせましたね!」と言って、沢山の恐ろしい黄泉の神々に後を追わせた。
 伊弉諾命が葦原中つ国に逃げ帰ろうとしたところ、泉津(よもつ)平坂で伊弉冉命と口論となった。
 この時、菊理媛神が現れ、両者の主張を聞いて助言をし、和解の成立に貢献したとある。
 しかし、菊理媛神がどこから現れたのか、どのような系譜に繋がる神であるのか、何を助言したのか、肝心な点は全然書かれておらず謎である。
 なお、神代文字で記されているとされる『秀真伝』には、菊理媛神が、天照大御神の伯母であるとともにその養育係であり、また万事をくくる(まとめる)神だと記されている。
 古事記では、劇的な場所として「坂」書く特徴がある。例えばイザナギノミコトがイザミノミコトと別れる黄泉平坂や、山幸彦にワニの姿での出産を覗き見られた豊玉眦売(とよたまびめの)命は、恥じて海坂をふさぎ海の国へ帰ってゆくなど坂は境と同じ意味を持つ「坂」と「会う」を並べた「坂合(さかあい)」が転じたのが境で日本において坂は異郷との境界を意味する。
 黄泉の国を去ったイザナキノミコトはこの後に禊ぎを行い、天照大御神や素佐之男尊ら重要な神々を次々と生んでいく。そこからククリヒメの言葉は「心身を再生させる禊ぎの勧め」だったのではないかと想像できる部分である。
 ククリヒメの発言内容は不明であるが、黄泉の国と現世のはざまで激しく言い争うイザナキノミコトとイザナミノミコトの別れに円満ムードを漂わせる古事記の中の不思議な一文である。

5 この世とあの世との境
 伊弉冉尊(死者)と伊奘諾尊(生者)の間を取り持ったこの説話から、ククリヒメはケガレを払う神格ともされ、シャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。
 平安時代に北陸の名峰白山では、僧・泰澄により越前国(福井県)の平泉寺白山神社、加賀国(石川県)の白山寺白山比盗_社、美濃国(岐阜県)の白山中宮長滝寺長滝白山神社を拠点とした三つの白山禅定道(登山道)が整備された。
 ククリヒメを祭る長滝白山神社のある岐阜県郡上市では七月中旬から八月末まで毎夜盛大に盆踊りが繰り広げられるが、郡上の盆踊りの特徴は多様な足さばき、跳ねるように、蹴るように、あるいは文字を書くよう下駄足を運ぶ。
 こうした踊りの原型は、岐阜県郡上市白鳥町長滝の白山登拝口に鎮座する長滝白山神社に伝わる「拝殿踊り」に元があるといわれている。拝殿の板床を下駄で踏み鳴らし悪霊を追い出し(返閉杯行為)、神や霊になりすます面をつけての山上に宿る先祖霊を迎える踊りからのものである。
 神々が住まう領域と一般人が生活する領域の境界は、この世と死後の世界がつながる場、ククリヒメが祭られる場にふさわしい拝殿にある。
 幸若舞と郡上踊には、いずれも白山の神にまつわる不思議なつながりがあることを感じるところである。

6 おわりに
 先日、奈良県桜井市にある安倍文殊院というお寺までハイキンググループで行ってきました。この地一帯は、古代豪族安倍氏の治めた地であり、後の遣唐使阿倍仲麻呂や平安時代の陰陽師阿倍野清明の生誕地と言われ、寺は華厳宗東大寺の別格本山としてその格式も高く大化元年(645)に創建された日本最古に属する寺院です。
 安倍文殊院の境内には、本堂、金閣浮御堂、白山堂等の御堂のほか東西二つの石室古墳が存在します。
 本堂内の御本尊は文殊菩薩で日本最大(約7m)の快慶作国宝である。
 本堂脇の西古墳は、飛鳥時代に造立され国の指定史跡の中で特に重要である「特別史跡」に指定され、古墳の特別史跡指定は全国でも数件で、明日香の石舞台古墳、キトラ古墳、高松塚古墳があります。ここは大化元年に初の左大臣となり当山を創建した安倍倉梯麻呂の墓と伝えられ、古墳内部の築造技術(石組み石表面加工)の美しさは日本一との定評の内部に立ち入り見学ができした。
 金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸をはじめ陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂です。陰陽道は占や厄を払い祝言を行うもので後の幸若舞の祝言舞いも陰陽道の流れをくむ伎芸であると言われます。
 堂内の六面の壁面には秘仏の十二天御尊軸(室町時代)がお祀りされています。十二天とは四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神です。
 白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿で、国の重要文化財にも指定されています。御祭神は全国の白山神社に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神である菊理媛神(くくりひめのかみ)で、当山の鎮守です。白山信仰と陰陽道は古くより深く結びついた為、安倍晴明ゆかりの当山に白山神社の末社が勧請されました。菊理媛神は『日本書紀』によると伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の縁を取り持たれた神様で、菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、古来より縁結びの神様としても信仰されています。「縁」は巡り合わせでもあることから、人と人を結ぶ良縁成就として参拝されています。
 白山信仰によって完成された幸若舞の古い時代によみがえる事の出来たハイキングでした。
おわり


「幸若舞の歴史」


「幸若舞[年表]と徳川家康、織田信長等」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367
posted by takeuchi at 07:28| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする