三木記【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 織田信長の栄華
ここに、尾張の国の住人織田弾正忠平朝臣信長、若きより昼夜弓矢を捨てず武勇を好み給う、これによって去る永禄の始めっかた美濃尾張両国の敵を切り従へ、江州佐々木一党を追伐し、程なく上洛ましまして此のころ都を守護し、おごれる三好家の輩をことごとく退治し給い、五畿内は申すに及ばず丹波・播磨の国までも懇願を入れずという人なし。
しかれば禁中を重んじ、平家元を勤め(信長は藤原姓から平氏を称する)て宰相の中将にて参内ましまして、その後大将を兼じ右大臣に経(へ)上がりて栄華の春を向かへ、栄燿(よう〜輝)の秋を極め給うなり。
さりながら御心に少し御不足の事やおはしましけん辞状(辞表)を書いて、禁中へ上げ給う、その言葉にいわく。
当官の事の次第の昇進いよいよ恩沢(おんたく〜恩恵)に浴すべきといえども、征伐の功未だ終わらざるの条、先ず一官を辞せんとす、東夷北秋既に亡びぬ(今川を破り朝倉を亡ぼし信玄と謙信は死に)、南蛮西戎何ぞ属せざらん(本願寺勢や毛利との戦いもいずれは終わる)万国安寧四海平均の時に当たって、重ねて勅命に登用し棟梁塩梅(天下に棟梁として政務を処理)の忠をいたすべし、しかれば顕職(政府高官)を以て嫡男信忠の卿に譲り与うべき旨、宜しく預奏達者(そうたつにあづかるべきもの)也。卯月一日信長判。頭の右大弁殿へ。とぞ書き給う。
かくて武官にましまして日の本を平らげ給わんとの御心中とぞ聞へける。
さて、諸国へ軍卒を遣し給う、去る程に東国へは徳川三河守家康、滝川左近蒋監一益、北国へは柴田修理亮勝家、佐々(さつさ)内蔵助成政、前田又左衛門利家、丹波の国へは惟任(これとう)日向守光秀、南方大坂表ては、佐久間衛門尉信盛、西国へは羽柴筑前の守秀吉なり。
2 毛利遠征の織田方、別所長治の反逆
さて播州東八郡の守護別所小三郎長治、秀吉に対し矛盾の濫觴(らんしょう〜流れの源)を尋ぬるに、天正六年三月の始め秀吉御下知にまかせて西国征伐の為かの地に下向の事は、(別所小三郎)長治一味同心の故なり。
同じき月の七日に秀吉、播州国衛(こくが〜役所)の賀須屋(糟谷氏)が館(加古川一万二千石)に陣を敷く。
ここに(別所小三郎)長治が伯父、別所山城守賀相(よしちか)と言う侫人(ねいじん〜口先の上手い人間)あり。
(別所小三郎)長治に相語っていわく「秀吉この地に入りて自由(好き勝手)の働きあり、災い遂に我が身に及ぶべし」とて鉾を逆に(反逆)して、味方の勢に陣触れし、中途より立ち返り三木城郭に立て籠り一夜の談合様々なリ。
中に就いてこの旨、上聞に達する(何事かを申し上げる)ならば程なく上勢(主君の軍勢)下るべし、さあらん時は要害の普請出城の始末不覚たるべし(すぐに攻め込まれては対応しがたい)とて、まづ謀り状を書いてのぼせらる。
公義に対し矛盾に非ず、秀吉乱入狼藉の余り一旦城郭に立て籠もり御気色をうかがい奉るべきよし使者をたてその間に居城を構え出城の普請をぞ極めける。
この度大敵を防ぐべき城には、(加古川の)志方には櫛橋左京の進、(加古川の)神吉には神吉民部少輔、(加古川の)高砂には梶原平三兵衛、(加古川の)野口には長井四郎左衛門、(三木の)淡河には淡河弾正忠、端谷には衣笠豊前守、これ皆案害(ようがい)主人堅固なリ。
残る小城をば、ことごとく引き払い上月、中村、高橋党、服部、後藤、長谷川、神沢、大村、三枝、上杉、魚住、賀古、加須屋、来住野、垂井、餘尾党、さて又福田の六十三騎、この人々を先として人質誓書取り交わし勇みに勇んで三木の城へぞ籠りける。
たとえば、異国の韓信(漢の三傑)、樊噲(はんかい)が寄せたりとも、危うかりとは見えざりけり。
3 別所孫右衛門重宗に反逆の真意を確かめさせる
秀吉この由聞し召し、あらら思いもよらずや(別所)小三郎長治をば、この行く末の案内者(毛利遠征の先方)と頼み、一廉(すぐれた)の受領をもてなし心を隔てじと思いしにより当国の人質は言うに及ばず、他国の人質まで取り集め長治に預けるこそ不覚なれ。
昨日の花は京の塵、昨日の友は今日の仇、飛鳥の川の淵ならで瀬に変わり行く習いとは今こそ思い知られたれ。
よしよし当国の面々ことごとく敵になるとも何程の事の有るべきぞ、有馬中務少輔、小寺、明石は心変わりにてはなきか、別所孫右衛門重宗は惣領兄弟が義について一味するかと問い給う。
中務少輔、小寺、明石、黒田はもとより異儀もそうらわず、(別所孫右衛門)重宗は、秀吉の御前に畏まり左右の眼に涙を浮かべ、ただ面目を失い奉るとばかりなり。
秀吉御覧じて、汝が兄、(別所)山城守賀相(よしちか)がひとえに謀と覚えたり、(別所小三郎)長治に対し状を遣わし事の子細を尋ねよと仰せければ、(別所孫右衛門)重宗承り、すなわち状をととのえてぞ遣わしる。
使い両三度に及ぶと言えど(別所山城守)賀相(よしちか)にいさめられ、ついに返答にあたわず、扱い既に破れたり。
4 織田軍、三木城攻めの前哨戦野口城攻め
秀吉この由聞し召し軍兵を引率し三木の城へぞ寄せられける、彼の城郭と申すは前には河水みなぎって後ろに高山そびえつつ林に続いて人家あり岩そばだって道狭しことさせ功者のこしらえて黒し黒し(人目に付かない場所)に人数をたて鉄砲軍を先として弓弦を鳴らして待ちかけたり。
秀吉御覧じて、谷々を放火させ先手の者を追い払わせ、其の日は先ず元の陣へぞ引き給う、翌日には長井四郎左衛門が踏まえたる野口の城へぞ寄せられたる、この日此の城を攻め取り軍の先兆とすべきとの議定なり。
城には待ち儲けたることなれば、櫓の上塀の狭間より射で出す矢尻鉄砲雨の如くあられに似たり、一陣少し引き退く。
二陣には石俵、竹束、鉄砲楯をかざしつれ堀際へ寄せ来たり、すなわち土手を築かせらる。
彼の所と申すは、播州にての広みにて山は遥かで海遠し中に田地漫々たり、頃は三月中旬に青海わたれる麦ぼうの風にたなびきて散乱す数万人の人足にて彼の麦を薙(なぎ)せつつ堀の埋める草にぞしたりける。
せいろう(井形に組んだ櫓)を高く上げ三日三晩入れ替え入れ替え攻め給う、八方に貝を吹き鐘を鳴らして太鼓を打ち鬨の声、鉦(かね)囃し、只雷電に異ならず、物によくよく譬えれば風に吹かれる小船の逆浪に浮沈み漂泊するが如くにて、城の内なる者共は、あう、前後を忘じていたりけり。
長い堪えづや思いけん、降参申し命を助けられんことを望む、秀吉弓矢のはかをやらんがために、許して城を受け取り給う。
しかるに別所、中国の守護毛利家と契約をなす事年久し、この時飛脚早打ち暇もなく合力勢をぞ請われける。
毛利右馬頭輝元はもとより律儀を立てる方なれば、援兵を遣わすとて小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春に二万騎を差加え、備洲作州の境目に陣を張り計索を巡らす。
この旨右大将(信長)聞し召し、後詰のその為に御出勢とぞ聞こえける、御嫡男(織田)秋田の城介信忠卿を大将とし、都合その勢一万五千余騎、播州灘におり下り、所々に陣をぞ取り給う。
彼の境目より、中国の人数も上らず官軍も下らず、互いに手立てを見合わせらる
5 織田軍、三木城攻めの前哨戦神吉城攻め
(織田)信忠の御諚には、なにがし加勢のしるしに別所が与力神吉の城、この要害を攻め破り競をとらん(勢いに乗ろう)と思し召し、即時に人数を打ち寄せて四方八方に楯を突き、火水になれと攻め給う。
城の内には押し静め人を討たんの謀、近々と引き付けたり、美濃尾張の人々は元より心が剛にして、手負い死人を踏みつけ数千人の者共、堀の埋め草となるまで無理にかかって攻められたり。
元より小城の事なれば大軍を受け保たん事、蟷螂(カマキリ)が立車に向かって張飛をたのむに似たり。
かかりける処に(神吉城主)神吉民部(大輔頼定)が同名に(城主の叔父)藤大夫(貞光)と言う者あり、惣領(神吉城主)民部が首を切って、御味方に参るべき由を申す、(織田)信忠聞し召し急ぎ参れとの御諚にて(神吉城主)民部は首を討たれける。
ここに三木より(神吉城へ)の加勢に梶原の十右衛門、入道して東庵と云う者あり、(城主の叔父)藤大夫が心変わりの由を聞き、ああら頼みても頼み難きは人の心や、甥といい総領といい三世の機縁を結び来しその甲斐もなく心替りをしけるぞや、ことさら人質を(別所小三郎)長治に参らせてまだ稚なき緑子を武士の手にかけて引き裂かさせん無残さよ。
この行く末に永らうて、たとい身をもつ世なりとも義理を違えし人なりと後ろ指を指すならば生きたる甲斐はあるまじと独り言にぞ申しける。
その後寄せての人々は、城大将が首を見て落居したると心得、内へ入って見んとて、おう、我も我もと乱れ入る。
東庵(梶原の十右衛門)この由見るよりも、ここにて切って出で寄せ手の兵共をいちいちに追い散らし高名せばやと思えども討死すべき身の数多の人を殺して罪を作りて如何せん。
さらば最後を急ぐべしと大手の櫓に取りあがり腹十文字に切ったるを褒めぬ人こそなかりけれ。
6 織田軍、三木城を包囲
(織田)信忠卿は、この競(勢い)をもって三木の城に押し寄せ、其の辺見及ばせ給い、二里三里の間に相城二つ三つ付けさせそれより御馬を入れ給う。
秀吉は平山という峰をこしらえ居城と定め敵城をこそまぼられけれ、その後、三木城内各々評議して、敵の人数は三千四千に過ぎず。
城の内に立て籠もる士卒七八千、誠に大軍を以て小敵の虜となる事無念極まりなし、是非引き出し一戦し勝負を決すべきの由、議定して長屋表にとりいで平畠に人数をたつる。
平山よりこれを見て先勢五百ばかり打ち出し、秀吉物の具し給い人数を揃え平山の腰、平みを陣取り、先勢を谷あいに下ろさるる。
三木方には室田、穂積、岡村が党をけいしへいと定め先手の見合わせしたりけり、その日の大将は山城守賀相(別所長治の叔父)、(別所小三郎)長治、舎弟小八郎治定、この両人とぞ聞こえける。
鉄砲軍始まれば、川を渡りて掛らんと馬一面に揃えつつくつわを鳴らしざざざと音を立て向かいの岸に乗りつけて勇みかかれる勢いは天魔をも退け波旬(悪者)をもあざけり。
谷に陣取る先勢、錣を傾け待ちかけしに、その陣へは掛らずして本陣の山を目にかけ打って上るこそやさし(けな気)けれ。
秀吉御覧じて今日の軍に勝つべき事は案の内、走りかかる敵相十町に過ぎたり人馬の息合い限りあり、近々と引き付け残らず討たんと下知しけり。
羽柴小一郎秀長、人に先を越されじとて早まるな面々と人々を諌めおき一番槍をぞ入れられける、秀長の人数一度にばっと斬りかかる。
秀吉続いて込みかかる、三木方の兵に久米の五郎久勝、清水弥四郎直近、一足も去らず、大将はいずくにぞ討死せんと名乗りつつ大勢の中に割って入る、されども物の数ならずこの両人も討たれけり、残りの兵共向かうをば切り伏せ逃げるをば追い討つ。
(別所長治の叔父)山城(守賀相)名馬に乗って引く、小八郎治定とって引き返し馬よりも下りにけり、樋口太郎(秀吉家臣)折り合いて細首中に落とす。
この外の兵共城の内まで追い込み、御許の人(別所長治の側近)の首数を二三十討ち取って、おう、勝鬨上げてぞ引かれける。
7 有岡城荒木村重が毛利方へ謀反との報
その頃、(摂)津の国の守護たりし荒木津の守村重、信長公に対し謀反して天下を覆さんとや思いけん。
先、京都より播州へ通路を止める、秀吉この由聞し召し急ぎ村重が館に至り、こは如何に村重、望の有らば秀吉に申されよ、公儀に於いては計らうべし。
御身かく成り上がりこの国の守護と言われること誰が恩とか思うらん、恩をあだにて報ずるかや、天道の有るならば後の報いのいかならん、のう村重と仰せけり。
村重、少しも同心の気色見えざれば、それより京都に馳せ上り御人数を引き下し、高槻、茨木の両城、調略を以て御味方となし、(荒木村重の)有岡一城に責めなし、さて、播磨への通いの城、難所難所に付け並べ、都よりの通路をば心易くぞしたりける。
しかつしよりこのかた、三木方には摂州色たつるに力を得、荒木端城、兵庫花熊(城)に通路をなし、丹生山に一城をこしらえ淡阿(氏)の要害の通いとして、毛利家の糧を運び入るる。
かの丹生山は難所にて、山の高さは五十町四方の岩石峨々として上下の道はつづら折、案内を知る人だにも夜中には通い難し。
しかるるを秀吉、屈強の兵を揃え夜半に忍びを付け切り込み乗っ取り給う、淡阿(氏)の城(三木城の出城)にこの由を見るよりも叶わじとや思いけん、開けて三木の城へぞ退いたりける。
その後、毛利の輝元、小早川の隆景、三木城見継ぐべき手立てとし、数百艘に船装いして、明石の浦、魚住に押し上ぐる、軍使には乃美兵部の少輔、児玉内蔵の太夫、其の外紀州雑賀の士卒、海際に要害を構え、舟引き付けてぞ居たりける。
秀吉、この由聞し召し、美紀と魚住の通路を止めんと思し召し、君が峰をはじめ四方八面を囲まれけるとかや。
周りの付け城三十ばかり、その透き透きに番屋を立て、塀柵乱杭逆茂木をもって、表には荊棘(けいきょく〜いばら)を引きつつ、裏には堀を掘らせけり。
飛ぶ鳥はそも知らず地を走る獣、逃れつべうはなかりけり。
城の内には、この由を見るよりも、敵の人数たとえ追々加わるとも、五六千にはよも過ぎじ、その勢を見て六七里の間を囲まれけるこそ不思議(意外)なれ。
8 三木城への兵糧輸送は、秀吉軍の迎撃に会い失敗
西国(毛利方)よりの兵糧、魚住に着いてあり、いかにもして入れんとて精兵百人選って弓に手矢を取り添え忍びに掛って魚住へい出し、この者共を案内者と定めつつ。
天正七年九月十日、(毛利方)芸州の住人生石中務少輔、手島一の助、並びに紀州の住人土橋平丞、(雑賀党の)渡部籐左衛門を先として七八千の諸卒をひき、表は要害厳しいとて後ろの方へ廻って兵糧を運ばする。
宵よりも出でぬれど、早明方になって大村坂に着きぬれば、合図の狼煙(のろし)を上げさせ、塀柵を切り崩す、三木の面々駆け合わせ、兵糧をば入れずして、(秀吉方)谷の大善助(谷大善亮衛好)が付城へ攻め上がり数刻防ぎ戦こうたり。
(谷の)大善は、外構へ取られじと乙(二)の丸にぞ下りたりける、先駆けしたる三木の者、おう、早、戸構へに押し寄する、(谷の)大善この由見るよりも大長刀の鞘はずし、大手の門を開かせ勇みに勇んで切って出で、手もとに進む兵を七八騎薙ぎ伏する、然れども(谷の)大善が運の尽くる悲しさは、長刀の鍔元二三寸置いてづんと折れて力なし。
その後、打ち物抜き以て大勢の中へ破って入り、数十人に手負わせ刀の刃尽きぬれば、脇差抜いて腹切って其処にて討死したりしを惜しまぬ者は無かりけり。
三木方の者共そのまま引くならば難もなからん処にかさの丸を取らんとて、人数をば引かざりけり。
秀吉速く駆けつけられるべき処に、敵一手には働かじ(同じ戦法ばかりとは限らない)、北方の襲に(攻め方によっては)、南方よりの手立て(戦術も)変わるべきてと、見合わせらるる処に、この如く注進あり、すわ、やっ、と云うままに風に従う旗先、敵陣へ差し向け、馬に鞭を荒く当て一刻に駆けつけ声を咄(ど)と掛けにけり。
敵も名ある侍にて、そうなく太刀場を取られじと、面も振らず掛りける。
秀吉御覧じて、三木の城と大村(坂) の間を押し隔てんと思し召し、笠坂の上よりもすぐに人数を下ろさるる。
山城は三千余騎にて大村前に控えけり、その中へ秀吉三百ばかりにて御馬を入れ給い割立(敵中に突っ込み)追廻し散々に切り給う。
三木方の兵は風に木の葉の散る如く四方へぱっと逃げにけり、そこにて取って引き返し槍前にて討死する者二三百、その中にとっても別所甚太夫、同三太夫、同左近の将監三枝小太郎、同名道石、櫛橋弥五三、高橋平左衛門、三宅与平次、小野権左衛門、とうり孫大夫以上軍の大将この外の雑兵六百余人討たれつつ首塚にこそ築れけれ、その外なで斬り打ち捨ては数をも知らぬばかりなり。
9 三木城籠城の飢餓
かくていよいよ城の弱るるを見て、また付城を寄せらるる。
南は八幡山(宮ノ上要害)、西は平田、北は長屋、東は大塚、城への近さは五六町、築地の高さは一丈余、上には二重塀に石を入れ模雁掻(柵)楯高く結い重々にしゃくを築き、川の面に(石を入れた)蛇籠を伏せ、(水流を弱めるため)簗杭打ってしがらみ掛け、橋の上にも番を据え渦巻く水の底までも人の通いを用心す。
裏には大名小名の陣屋を宿屋作りに建てさせ小路を通し、辻々に門をきり昼夜によらず往来の人を選んで通しけり。
暗夜になれば、町々の篝火(かがりび)灯明の光りは月の如くにて、数は星に異ならず。
秀吉近習の人々を六時に分かって(四時間交代で)三百人番屋番屋の名字を書き付け、付け城の主人に判形(花押)据えさせ回されけり。
もしも油断の輩は、上下によらず成敗し重き者をば、はたもの(はりつけ刑)、軽きを誅伐す、人々これを見、舌を震って恐れをなしあらら無残や。
城の内には、旧穀ことごとく尽き、既に餓死する者数千人、始めはぬか藁を食とし中頃は牛馬鶏犬を殺し食らう、後には手負い死人のししむら(肉)を裂いて食うとかや、異国の楽羊(中国の逸話)ならでは、人を食う例のありとは、さらに聞かざりけり。
10 織田軍、三木城内の支城砦を攻撃
天正八年正月六日、(三木城内の砦)宮の上の要害調略を以て秀吉自身乗り込み、その日また諸陣を寄せらるる、掘際三町に過ぎず。
宮の上の構えは、(別所長治の弟)彦の進(友之)が、鷹の尾(砦)ならびに(別所)山城(守)が新城より高き事二十丈ばかり。
秀吉、宮の上より御下げ墨(様子観察)あって、同十一日白昼に南構えに人数を付け山下を放火し、秀吉、秀長は(別所)彦の進が鷹の尾(砦)、並びに山城(守)が構えに駆け入り敵数輩討ち取り、ここを先途戦うたり。敵の士卒は詰の丸(本丸)にぞ籠りける。
これが譬(たとえ)かや、神無月かみな月、時雨の雲の立田山、梢まばらに成り果てて下枝に残る紅葉の嵐を待つに異ならず。
(別所)長治これを見て、舎弟彦の進(友之)を近付け、何とか思う彦の進、とても此の城久しく保つべきにても非ず、今夜腹を切らんと思えども敵陣へ案内し残る士卒共とが(科〜過ち)なうして組する輩助けてたべと懇望の状を書いて出すべし如何にとありしかば、彦の進承り、もっともと申しつつ則ち状を調えて敵へこそい出されけれ。
只今申し入れる意趣は、去年以来敵対の事故なきに非ずといえど、今さら素意を述べるにあたわず、しかしながら時節当来天運既に極まれり何ぞほぞをくう(後悔する)に耐えん、(別所)長治並びに同名山城守(賀相)、同彦の進(友之)、両三人来る十七日申の刻腹を切るべきに相定めおはんぬ、残る士卒、雑人以下とがのうしてことごとく頭を刎ねられんことは不憫の題目なり、御れんみんを以て助け置かるるに於いては今生の喜び来世の楽しみ何事か是に過ぎん、この旨宜しく御披露に与るべし仍て恐々謹而申す、正月十五日、別所小三郎長治、あう浅野弥兵衛の尉殿へとぞ書かれける。
この旨すなわち披露の所に、秀吉この由聞し召し、誠に文武二道の侍かなとしばし感じ給いつつ雑兵を助けんとの返答に添えられ酒肴調べ最後の遊宴あるべしとて城の内へぞ送られける。
11 山城(守賀相)の勝手な行動による死
(別所)長治は、秀吉の返答を聞きあらら嬉しの事どもや、いざさらば酒盛りせんとて、両日両夜の遊山こそいつにすぐれて覚えたれ、嘆きの中の喜びとは今この事をや申すらん。
胡蝶の夢の戯れ槿花一日の栄、たとい千年を経るとても限りなくては叶わず。
なまじいにそれがし等弓馬の家に生まれつつ名を朽たさじと思うこそ実に哀れなる心なれ。
今夜ばかりを名残りとて夫婦の人は閨屋の戸の扉も鎖さで十六夜の月やあらぬと来し方を思い出つつ諸共に十四十五の春よりもはかなき契りを結び初め、連理の枕水鳥の鴛の衾の下にただ起き伏し馴れし呉竹の世は定めなき習いとは知らざりけるぞ愚かなる。
しばしまどろみて、明ければ十七日早朝に起きて行水し香をたき髪を上げさせ日旬なれば彦の進(友之)召し寄せ山城に使いを立て、兼日に定る如く今日申の刻生害あるべしと申せ。
彦の進(友之)承りこの由山城(守賀相)に言い渡す、山城(守賀相)返答には、我等両三人腹を切り諸卒を助けて何かせん城の内を焼き破り諸共に焔となって骸骨を隠すべしとぞ申しける。
城内の者共、すは山城(守賀相)先約を変するぞ、山城(守賀相)一人の覚悟にて残党を殺さんとや、諸卒は皆一統したるしたることなれば山城(守賀相)を討たんとてこそ寄せにける。
山城(守賀相)櫓に上がって焼き崩さんとしけるを家来の者も、敵なれば(今や主人は敵同然)首を討ってぞい出しける。
12 別所長治兄弟の自害
(別所)長治はこれを聞き、元より覚悟の前我が一類の末後この時に期したりと三歳の緑子を膝の上にかき乗せあらら果報つたなの事どもや、かかれとてうばたまの此の黒髪は撫でずして一筋を千筋に成れと願い来しその行く末を引き変えて、あまつさえたらちねの手に掛けん事不憫さよと心の猛き(別所)長治もしばし涙にむせびけり。
かくては叶わじと思い切り腰の刀をひん抜いて心元を一刀あっとばかりを最後にて朝の露と消えにけり。
女房がこれを見て自害をせんとしたりしを(別所)長治は見るよりも取って引き寄せ差し殺し同じ枕に押し伏せ衣引き被け置かれけり、(彦の進)友行が女房も同じ如く生害し、今は思いも残らずと兄弟はうち連れて表を差してぞ出でにける。
さて客殿の縁の板に畳一帖敷かせつつ左右に居直りて、皆人々を呼びい出し暇乞いをすべしとて気色を違えず、にっこと笑い此の三年が間の籠城を相届ける志のせつなさは海よりも深く山よりもい高し何れの日か此の恩を報ぜんと願い来し、其の甲斐もなくして角なり果つる無念さよ、さりながらなにがしら両三人が生害しさて各々を助くるこそ嬉しかりける次第なれ。
さらば方々最後の名残是までと脇差取り直し弓(左)手にがばっと突き立て馬(右)手へざっと引きまわす、三宅肥前治忠入道首をちょうど討ち落とす。
(三宅肥前)治忠が申しようこそ哀れなれ、この前(さき)御恩に与る人は多けれど此の般の御伴を申す人は更に無し、それがしも当家譜代の年寄りと云いながら述懐(不満)の子細あり(主人の前に)出頭にも及ばずある甲斐もなくして人がましきことなれども御介錯の御伴申すさらばとて腹切って死んだりけり。
(彦の進)友行この由見るよりも、あっぱれ清き自害かな、(彦の進)友行も腹切って名を後代に留むべし皆見給えというままに腹十文字に切り破り臓腑を繰って捨てにけり。
(別所)長治年は二十三、(彦の進)友行二十一おしむべしべし。
さて山城(守賀相)が女房も自害をせんと思い切り(夫の無様な死に方に対し立派に)男子二人女子一人三刀に刺し殺し剣を含み死にたるは哀れなりける次第かな。
13 織田軍、三木城を平定
翌日には城の内の者共をい出しことごとく助けられけり、その内に小姓一人短冊を持ちて来たる読んでみれば辞世なり、
まづ(別所)長治歌にかくばかり
今はただ恨みも有らず諸人の命に代わる憂き身と思えば
同じく(彦の進)友行
命をも惜しまざりけり梓弓末の代までの名を思うとて
三宅(肥前)治忠入道も
君なくば憂き身の命何かせん残りて甲斐の有る世なりとも
と、かように詠ず、実にも文武の誉れ名の下あに空しからんや、秀吉は別所三人の首を京都へ上せ信長公の御実験に備えつつ播州にては御着(城)、志方、魚住この城々を同じに責め伏せ伏せ但馬一国一辺に属す。
備前、美作の先に一味せり、その外西国四国(秀吉に従う旨の)懇望の使札、日々到来の旨上聞に達す。
武勇と云い調略と云い比類無き由、御感状、誠に弓矢の面目何事か是にしか(如)んや。
よって秀吉、三木の城に移り地を清め堀をさらえこの度退散する人民を引き直し、法度を定め、当国の面々は言うに及ばず但州備州の諸侍着到の旨に任せ在城すべきよし、還住(戦を避けた後元の村に帰る)の間、人々屋敷を構えかまどを並べ日を経ざるに数千軒の家を建つる、皆人耳目を驚かす、或る人のいわく。
秀吉に十得あり君に忠臣あり、臣に正罰あり、軍に武勇あり民に慈悲あり行いに成道あり心に正直あり内に智福あり外に威光あり聞くに金言あり見るに奇特あり。
若輩の時よりも人間抜群の主人なを行く末の繁昌仰がぬ人は無かりけり。